様々な思想

ジャンル問わず様々な考え方を自分なりに書き留めます・・・

自分自身の価値観と他者の価値観

最近出会った人で、物事の価値観がめちゃくちゃ合う人がいた。

要は自分とすごく同じ思考の人だ、自分の若い時を見ているようだった、しかし全てがマッチングしている人は居ないものだと痛感した。

 

自分が育った環境は極めて重要なんだと感じた、何を持って事に善悪の判断をするのか何を持って美と汚れを判断するのか。

私にとって耐えられないと思う事でもその人にとっては普通の事なのだ、その人が悪い訳ではない、その人は普通に生活している、ただ育った環境ゆえそれが異常だという事が分からないのだ。

それを責めてはいけないと思う、しかしそれを改善できる自信も無い。

 

難しい問題に直面した、急いで事をなしてもきっと良い結果は生まれない、その人がどう変化するのか、又は変化する気があるのか長い目でのんびり見ていく事が何より大事なのだろう。

 

しかし、考え方はそれでも構わないが私は今までも様々な人を見てきた、自分自身が比較的色々な経験をした事もある為ある程度の事には動揺もしないで日々を過ごせる。

そんな自分でも今回は驚愕した、この状況が普通だと思っているこの人は大丈夫か?と私の感覚が狂っているのか、私の感覚が厳しすぎるのか。

多様に考えた、しかしきっとどの考えも違って自分を正当化する訳では無いが、育った環境が故価値観や感覚にズレがあるのだと。

 

こればっかりは仕方がない事だ。様々な問題に直面しながらでも私の価値観が正当なものだと本人が認識しそれに向かって改善しようと思えるならきっと物事は変化していく。それまで待つしか無いだろうと。。。。。。自分に言い聞かせる・・・・・

世界情勢と自分

2月下旬ロシアがウクライナに軍事進行をした。

世界は第三次世界大戦の様な事は無いだろうと過信していた。無論私もだ。しかし現状は違った。時に世界大戦が始まろうとしている今私の生活は変わったのだろうか?

特に何も変わらない、毎日ミサイルや大砲で死ぬ人がいる中、私は何も変わらない。

仕事の大変さや、辛さに日々項垂れている。それが本当に辛い事なのだろうか?自分の置かれた環境下で辛いと錯覚している、分からない事に不安を抱いて辛いと錯覚している。

 

私よりもっと若く、小さな子供が泣き、心臓が張り裂けそうな感情を毎日眠ることができない環境下で耐えているのに。

私は、金があり、仕事があり、家があり、誰にも邪魔されない睡眠を得られるのに、9時間の大変な環境下を大変と訴え、そもそも上記の環境より大変では無い事を大変等と発し滑稽だと思う。

 

世界の情勢と自分を対比する事は別格だが、余りにも自分が情けなく感じてしまった。

 

 

出会いは急に実も砕くも自分自身

今日は地味に恐ろしい事があった・・・

前に職場で働いていた後輩とフとした所で出会った。正直めちゃくちゃビビったし驚いた。自分がその人にそこまで記憶に残る事をした記憶は無いが、その人は覚えていた。

 

色々あった様だが元気にやっている事を聞いた時安心した。

 

しかし、自分が他者にどれほどの影響を及ぼしているのか地味に感じた。

自分は自分の仕事にいっぱいになっていて、その人が働いていた時妹の様に感じ接していたが、ただそれだけだった。

自分が同じ立場だったら覚えてはいないだろう、自信過剰とかって言うよりその人が覚えている事は何かしらの影響を及ぼし記憶に残る事だったのだろう。

 

私は今まで人は人で生きてきたが、この年齢になり周りが見る目が変わり自分の言動が小さくても影響を及ぼす事を日々感じていたが、こんな事で痛感する事になるとは思ってもいなかった。

 

もう少し慎重に物事を見定めないといけないのかもしれない。

 

何が・・・・言いたいのか・・・・・嬉しく、複雑な気持ちだ・・・・・

人の感情に対して

喜んでる人

怒ってる人

疲れている人

泣いている人

不貞腐れている人

嫉妬している人

・・・・・・・・・・・etc

 

人間にはさまざまな感情がある、言葉に表す事ができない感情も存在する。

感情は他者には100%と言う形では理解はできない、何故その感情になっているかも同様だ。時に感情を表に出す事は人間である以上必要だ、しかしそれを露骨に受け止めても自分自身が潰れてしまう。全ての感情に対し反応して対処していては物事は進まない。切り捨てる所も必要だ、何をどうしても理解できなかったり、解決できない感情も存在する。

 

しかし、さまざまな感情が錯綜するこの世の中人と対面とする時必ず直面するだろう、その時によく考えるのだ、何故その人は建前的な対応ができないのかと。とりわけ負の感情を表に出している場合だ。

自分が怒る時又は泣く時、たまたまバスの隣に座った人に怒ったり突如と涙を見せたりするだろうか?

負の感情を表に出す時は信頼する又はその人に期待を抱いているからでは無いだろうか。分かって欲しいから理解して欲しいから、共感して欲しいから何にしてもその人に自分の感情をわかって欲しいから感情を表に出すだろう。

 

その考えを前提に置いた時、そういう感情を出す人がいた場合間違えなく自分を信用している又は心を開いているのだろう。

(一つ言えるのは嫌がらせで怒っている人もいるが、そんな人はそこまで体力が保たない、少なくとも自己嫌悪は感じているだろう。そういう人は別だ)

 

 

自分の限界

自分の限界は誰が決めるのだろう、自分自身が決めるのだろうか。

自分自身は何を持って限界と決めるのだろうか、頭が回らなくなるから?体調を崩すから?気持ちが落ち込むから?

限界を決めたら、そこから何もしなくて良いのか。

限界を見出しても、その限界までの間で結局ギリギリを攻めないといけない。

少なくともそれが人生だと思う、働くとはそういう事だ、仕事ができればそれだけ求められる事は数多くなる、そこに線引きをする事は極めて困難だ。

 

限界と思うとその時点で限界だ、人間そんなに困難な事はない。

よく言う『なるようになる』などと・・・・

正しくその通りだ、色々な対応をしていると必ず見落とす事はある、それはそこまで重要な事なのだろうか?本当に自分が対処するうえで必ずしも今すぐ対応しないといけない事なのだろうか?対処しきれない事柄なのだろうか?

 

一日8時間働き家でも仕事をし、家の事も行い、愛犬にご飯をあげ・・・

ある意味自分自身が少し強固になってきたのかもしれない。やるべき事が山積していても必ず終わらせる、その分野を対処する、その事象を片付ける

一定のレベルで対処しきれている。今後膨大に対応しないといけない事があってもそれでも対応は可能だろう。

 

以前のブログに記載したが、自分ができないと自信を喪失し本来の力を発揮できないのは極めて無意味だ。どんな事にも前向きに取り組み必ず実績を作ろうと必ず何かの功績を作ろうと、それが自分自身の事柄でなくても会社に現場に部下に何かしらを残してあげようと必ずそうできると、自分に言い聞かせ行う。

 

どれだけミスをしても、日々の作業を仕事を真剣に取り組み真剣に対応していれば必ず自分に返ってくると。

必ず将来いつか自分があの時に踏ん張った、あの時はこれだけできたと誇らしい気持ちになれ自分自身が飛躍できる事が必ずある。

 

その時まで、それを実感できる時まで我武者羅に粘り事を成す。

 

見ていろ!将来の自分!今この大変な業務は将来の自分に繋がり自分がその時直面している課題など一瞬で解決できる経験を今築いていると

何が良いなんて分からない

自分の人生で何が良く、何が悪いなんて分からない。

(反社会的や人の道を外れている事等が悪いのはわかる)

 

人生は生きるとは日々選択の繰り返しだ、その行動が今後どのような事を招くのかそんな事はその時いくら考えても分からない。後悔をする事もある、あの時こうして良かった、あの時我慢して、辛抱して、苦労して良かったと思う事も多々あるだろう。

 

しかし確実に一つ言える事はどんな事でも、それが自分にとって無価値な事でも他者から見て無価値に思える事でも、何かを続け自分で決めた事をやり抜くだけで何かを得るそれが結果として無意味でも、価値がなくても、成功だと感じても他者からそう感じなくても。

何かを行いそれを継続して行う事でも、それを使命として行うにしても、仕事の様に行っても、楽しく行ってもきっと結果は同じだ。

世の中には需要と供給があるが、いつの日にか何かしら結果を招く。

 

忘れてはならない事は、自分自身が大した事でも無い事や大変な事でも誰かがそれを待ち望み、誰かがそれを求めている事がある。

 

些細な事を微々たる期間やったとしても、それが周りから求められなくても、それが他者に目に留まらなくても自信を喪失するのは違う。

 

必ず見ている人はいる、この日本という国家は1.2億人の人口で構成されている、そのうちの1人だ。1.2億人が自分を拒む事は無い。

1.2億人のうち1人かもしれない、2人かもしれない何百万人かもしれない、それは自分が行ってきた事柄や実績によって変化するが少なくとも大なり小なり、認め受け入れようとする人はいる。

 

自信を持ち且つ謙虚に自分が正しいと思い、実行し続ける事が何よりも大事な事だ。

 

結果を求める必要はない、結果はいずれかの時に必ずついてくる。

 

 

人への理解を示すこと

十人十色等とよく言ったものだ、人はその人その人の個性と考え方がある。時に考え方が常にヒステリックに近い又は病的な考え方を抱く人もいる。

それでもなんでもかんでも病気だと思う事はまた違う。

 

私は今管理職をしているが、色んな考えあるなと思う事が常にある、色んな事に初動から参加しないのに途中から文句を言う人もいる。

しかし、本当にそれが文句なのだろうか?本当に弊害を生む為に結論を見出す為に発言しているのだろうか?

意外とそうでも無いものだ、その時の気分とその時の雰囲気だけで話している事が多いこれは男女関係ない、私はそれに対して真っ当にやりとりをしようとしても無駄だきっと本当の意味で賢い人はそこを見極めるのだろう。

私にはそれができない、厳密にはできていなかった。今できているわけでは無いが。

しかし今後の考え方として、その人が何故そのような発言をしているのか、人間はシンプルなものだ、自分の考えを自分の訴えを聞いて欲しいものだそれは何歳になっても男女であってもどの立場にあっても変わらない。

 

人をうまく使う為には時に話を黙って聞く、それが本当の意味で道理に叶っているなら採用するがそうで無い事が比較的自分は多い。

そう言う時は少し時間を置きその上で改めて違う観点から話す事が何よりも時間を浪費しないで自分自身が体力も使わないで済む方法だ。

 

その人を、その人の考えを、思いを、発言をよき聞き理解を示してあげる。

これはどんな人間関係でも物事を円滑に進める何よりも重要な事だ。